春の暖かな陽気に誘われ海が見たくなった俺は
とりあえず藤沢から江ノ電に乗った。
民家の軒先を掠めながら長閑に走る江ノ電。
俺が乗った車両は床が板張りの現役最古参の車両。
急曲線や停車時の軋む音、発車時の唸るモーター音が、街の喧騒から離れローカル線での小旅行気分を盛り上げる。
江ノ島駅を発車し、腰越の商店街の併用軌条(いわゆる路面電車)をゆっくり抜ける。
進行方向右手の車窓に海が飛び込んでくる。
俺の目指す目的地はもうすぐだ。
ふと七里ガ浜沿いの海岸道路を歩いてみたくなった。
俺は目的地の最寄り駅の二つ手前で下車する。
鎌倉高校前駅。
海に面した単線ホーム。
映画やドラマのロケ、様々な小説に出てくる素敵なロケーションの無人駅。
最近ではクリスマス前後の年の瀬の夜間には華やかなイルミネーションでライト・アップされている。
俺は改札でICカードを軽くタッチしてホームの外に出る。
踏み切りを渡り、箱根帰りの愛機R32GT-Rでいつも走っているR134湘南道路を鎌倉方面へ歩いた。
海から吹く風はまだ冷たい。
でも、その風にのってくる潮の香りは
あの暑い夏を想いおこさせる。
俺はスプリングコートのポケットに手を突っ込みながら夕暮れのR134湘南道路を歩いた。
交差点で振り返ると、江ノ島と富士山が綺麗な夕焼けをバックにコラボレーションしていた…
稲村ヶ崎駅入口の交差点に差し掛かる。
俺の目指す今夜の海辺の俺BARは目の前だ。
稲村ヶ崎、BAR“Jerk”。
箱根帰り、いつも気になっていたBAR。
海沿いの道路に面した小さなBARは俺が理想とする最高のロケーション。
扉を開けカウンターに腰掛ける。
奥のキッチンからは賄いでつくったであろうカレーの香りが微かに漂っていた。
俺はそんな事はお構い無しに差し出されたメニューを開くことなく、とりあえず“ジン・トニック”をオーダーした。
ゴードンをベースにしたジン・トニックを一口。
ライムとトニックの清涼感が喉を潤す…
『なかなかしっかりした味じゃない』
俺はそう思いながら背後にある窓に視線を向ける。
さっきまでオレンジ色に染まっていた水平線近くの空は濃いブルーに変わっていた…
ジン・トニックをゆっくり飲乾した俺はテキーラをロックでオーダーした。
それはマスターのお奨めの俺の聞いたことがない銘柄だった。
海辺のBARで飲むテキーラ…最高の組合せだ。
今年の夏はこの店でテキーラとラムをたらふく飲んで、目の前の砂浜で大の字になって夜を明かすのも良いかも知れない…なんて俺は思ってしまった。
3杯目をオーダーしようとした時、小腹が空いていることに気付いた。
先程、ドリンクのメニューとともに渡されたフードのメニューを手に取る。
さすが、湘南。
海系の肴がしっかり載っている。
記述意外にも“さざえ”や“生牡蠣”などの本日のお勧めがあるということだ。
とりあえず3杯目を決めてから食い物はオーダーしようと思った俺はドリンクのメニューをパラパラと手繰ってみた。
目に留まったのはナント…日本酒。
それも以前より飲みたいと思っていた湘南茅ヶ崎の地酒“天青”。
俺は“天青”の純米吟醸・千峰と食い物はやはり地元のものということで佐島で漁れた“いわし”の丸干しをオーダーした。

「“天青”に“いわしの丸干し”なんて、良い飲み方しますね」
と、マスターが微笑しながら俺の前に焼きあがったばかりのいわしを置いた。
いわしを頭からがっぷりと喰らう。
『しまった…俺、肝苦手だったんだよな』
と一瞬思ったのだが、思いのほか肝は苦くはなくすんなりと食べることが出来た。
これってやはり地魚で新鮮だということなのだろうか。
瞬く間にいわしを平らげ、天青もしっかりと飲乾した俺はお手洗いを拝借することにした。
「あのぉ~、お手洗いはどちらに?」
「2階の突き当たりにございます」
「ありがとう」
『2階もあるのね』
俺は興味津々に緩やかにカーブした2階への階段を上がる。
テーブル席が幾つか設けられ、照明も明るめにされている。
窓からはもちろん稲村の海と湘南道路が見える。
カップルや小グループで酒を少々嗜みながら落着いて食事をするなら2階席へ…といった感じだ。
テーブル席をすり抜け突き当りのドアを開く。
何とユニット・バス!?
海側に面したバスタブのすぐ脇には窓があり稲村の海が見える。
海を眺めながらのバスタイム…素敵だよね。
でも、そのバスタブは使用されてなく、代わりにバスタブの中にログテーブルが置かれ、湘南地区の様々な情報誌が置かれていた。
再び1階のスツール腰掛けた俺はシメの酒をオーダーすることにした。
お世辞にも大きいとは言えないバックバーには所狭しとボトルとグラスが犇めき合っている。
俺はそのボトル群の中でバーボンでカテゴライズされているであろう箇所に目を移す。
『おっ!?』
俺は1本のボトルを凝視する。
「すみません、ビームス・チョイスをロック、ダブルでお願いします」
“Jim Beam's Choice”
緑色のラベルのバーボン。
俺のお気に入りバーボンの一つだ。
オーナーらしき女性が俺のグラスを作ってくれた。
「今日は一通りのお酒を…って感じですね」
俺の今夜のオーダーを確認したのだろうか。
俺の前にグラスを置くなりそう言った。
「いやぁ…」
俺はそれ以上の言葉を口にすることが出来なかった。
酔いのせいもあってか、そう言われて少し照れてしまったのだ。
ゆっくり時間を掛け、ビームス・チョイスを飲乾した後、気付にチェイサーをひとくち口に含む。
「ご馳走様でした。チェックしてください」
「分かりました」
程なく差し出された金額を見て俺は驚いた。
「これ、間違ってませんよね?」
「ええ、間違ってませんよ」
俺は端数を繰切り上げた金額を満たす札を数枚差し出す。
「こんなに安くて良いんですか?」
「はい」
支払いを済ませ、スツールから降立つ俺に
「お近くなんですか?」
俺にビームス・チョイスを作ってくれたオーナーらしき女性が聞いてきた。
「いえ、かなり遠いです」
と、答えながらスプリングコートの袖に手を通した。
「私たち東京からなんですけど、それより遠いんですか?」
俺の隣に座っていた2人組みの常連の女性の一人が尋ねてきた。
「東京の少し先かな」
「サイタマとか?」
「どうかな…ごちそうさま!」
「ありがとうございます!」
俺は店の扉に手を掛け、カウンターに振り返る。
「今夜は楽しかったです…また来ます」
「はい。お待ちしてます」
俺は店を出た。
鎌倉方向に歩き出す。
R134湘南道路の車の流れはスムーズだ。
稲村の丘を登りきる。
目の前の景色が開ける。
海岸沿いの街の明かりが、海面にゆらゆらと映っていた…
海辺の俺BAR“Jerk”
次に来る時は春の終わり…初夏の頃だろうか
その時はラムとテキーラをたらふく飲んでみよう
俺は由比ガ浜の海岸沿いをゆっくりと歩いていった
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